共感と観察

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弊社運営のパソコン教室ではインストラクターの募集を時折行っている。

その中で、
「私、あまりパソコンは使えませんが、
私も初心者なので初心者の気持ちが解ります。
マウスの使い方くらい教えられるのでインストラクターになりたいです」
と、応募してくる方がたまにいる。

初心者の気持ちが解るから、共感力があるし、
だからこそ、初心者対応ができると自己PRに書いてある。

しかし、疑問がふつふつとわいた。

サービス提供者はユーザーへの共感が必要なのだろうか?

提供者側のユーザーへの共感は、ユーザーからの共感につながるのだろうか。
もし、共感できなかったら、ユーザーへのサービスは提供できないのだろうか?

ユーザーに共感するより、ユーザーの行動の先回りをする察し力が
提供者には必要とされるのではないのか?

受け手への共感は作り手・提供者に本当に必要なのか?

話の途中に「うんうん、解る解る」と相槌を打つ人が多い。
「その気持ち、解る。」「私もそういう経験ある」「共感する」

そして、その話に対して、どういう意識で共感したかと尋ねた。

その回答から察するに、
共感とは、話の中から公約数を見つけだし、
それを公倍数にしているようだ。
(そして、そんなことを突っ込んでいる間に友達はどんどん減っていく。無念)

失恋話を例にしてみよう。

話し手のストーリーに、
話の受け手は、「そのつらい気持ちわかる」や
「私もそんな恋をしたことがある」的な
公約数を見つけだし、「解る解る」の公倍数にする。

それが「共感力」だ。

しかし、話し手にとっては、
自分の失恋話は、誰とも似て非なる
特別なオンリーワンだったりする。
「あなたに私の気持ちなんてわからないわっ」というイメージだ。

作り手に必要なのは共感よりも観察ではないか

「共感できる」という言葉は、受け手の言葉であって
作り手は受け手が「共感できる」用に創る必要はあっても、
作り手が受け手に共感する必要はないのではないかと思うのだ。

作り手に必要なのは、共感よりも観察、
そして受け手が絡むストーリーをつくることだと思う。
共感よりも、ユーザーの日常を想像する事。
想像するために、観察がたくさん必要なのだ。

共感だけでは、目の前にいる人の問題を解決できない。
共感できるだけでは、教える人にはなれない。

教える人に必要なのスキルとは、
初心者がなにに躓いていて、どこで理解していないのかを解る力
つまり、観察力であると、私は考えている。

だから、サービス提供者は、共感の一歩前へ。

繰り返しになるが、
作り手=提供者側に必要なのは
ユーザーに共感してもらえるストーリー作りだ。
そして、共感してもらえるように、
ユーザー側の公約数を探る観察力が必要だ。

共感をされるための観察力、そして、問題解決力、
それが、提供者側には必要なのだと思う。

時折、高齢者の気持ちになれないから
高齢者ビジネスの想像がつきません、という相談を受ける。

基本的に、人は人の気持ちなど、解るわけはない。
私も、今まで3000名近いシニア層に会っているが
シニア層どころか、友だちの気持ちも理解していない。
理解できるものだとも思っていない。
そこには、想像と仮説と検証しかない。

だから、共感しようと思わなくていいし、
シニア層に共感できるからサービスが提供できると思わなくていい。

共感よりも、観察して、想像して、仮説を立てて検証した方がいい。
観察なら、飲み友達がシニアじゃなくても
昼間の都バスでも十分に面白い。

そして、観察した結果、ユーザーが共感しやすいストーリーを
提供するのだ。

それが、シニアビジネスにも、シニア・初心者に何かを教えるのにも
必要だと、私は思う。

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