人はそれぞれ、自分の中に
「主観的な客観的評価」を持っている。
例えば、
「私、大体パソコンできます」という方に話を伺うと
「(自分が主観的に)客観的に考えて、
このレベルまでできていればパソコンができると言える」
という考えの範囲の中の
「その中でも、7割方(多分、これくらいが大体?)出来ていると思うから、
自分はパソコンを大体使えると言って差し支えない」
という流れが見える。
できます、という方は、意外と出来ない場合が多いような気がする。
反対に、「私、パソコン、使ってはいるけど、まだそんなに使えるほうではない」
という方に話を伺うと、
「(自分の)客観的に見てすごい人が周りにいる」
範囲の中の
「私はまだ使えるうちに入らない」
という流れになることがある。
こういう方は、ご本人が思っているよりも、良くできる気がする。
自己評価は「主観的客観性」により決まる
普段の生活で、他人から客観的に判断を下されるということは
試験を受ける必要があることが多い。
それ以外は、自分に対する「客観的(だと思う)評価は」
「主観的客観」に過ぎない。
つまり、多くの人は「客観」を主観に基づいて創り出している。
例えば、以前の実施したアンケートでは
「自分は周りより若く見えると思う」と回答した人が8割に上った
自分の「主観メガネ」を通して
世の中を客観的に判断すると
「私は若い!」と思う、という仕組みである。
冒頭の「できる」という判断も同様だ。
「世間様の出来る」の範囲は
自分の経験から算出される(主観的)であるため、
客観的評価を考えているようで
実はとっても主観的なのだ。
客観的に主観的バイアスがかかる。
人はバカと思われたくない。
たくさんの大人と接していると
年代が上がれば上がるほど
「バカと思われたくない」という気持ちが強くなっていく気がする。
「出来ないと思われたくない」
だから、出来なさそうなことはしない
予防線を張ってしまう。
新しいものに挑戦しなくなるのは
「出来ない自分が、できないと他人に思われるのがいや」
なのではないかと私は見ている。
誰も、そんなことは思っていないのに
自分で客観的評価を主観的に創り上げてしまう。
ほぼほぼ初めてやることなのだから
できなくて当たり前なのに、
できない恐怖=見えない主観的客観的評価が下されることを恐れて
人は始めるのを止めてしまう。
他にも、客観評価の範囲を間違え、
「自分はもっとできるはずである」という
「しかし、意外とできなかった」から
「嫌になった」ということもある。
だから、「大丈夫ですよ、できてますよ」という優しい言葉は
対象者の主観的客観評価のハードルを下げるために使うものかもしれない。
人の客観評価を鵜呑みにしない
「大体できます」という人の言葉は、全く当てにしてはいけない。
そして、その言動・行動から、提供者側が持っている客観指標において
相手を判断し、プライドを傷つけない程度の
商品、サービス提案が必要である。
受容者の主観的客観的評価が間違っていれば
間違った商品を買うことが多く
(慣れていないのにプロ向けを購入するなど)
出来ない時のサポートもさることながら
受容者の満足度が著しく下がるということにもなりかねない。
商品を購入するのは、お客様だが
その方に合った商品を判断し、提案し、使っていただくのは
提供者側の仕事なのである。
だから、「お客様のニーズにこたえて」が正解ではなく
「お客様の抱えている本当の問題を当てて提案する」が正解なのだ。
とても難しいことではありますが。
しかし、相手の言う「客観的評価(風)」が、
主観的却下評価であると認識することで
商品開発のアプローチが変わるのではないかと、思っている。(客観的に。)